須賀達郎が描く“球場という町”──『ボールパークでつかまえて』誕生の舞台裏と作家の素顔

「野球漫画」と聞いて、あなたはどんな物語を思い浮かべますか？

熱血の試合展開、選手たちの成長譚、あるいは甲子園を目指す青春ドラマ……。

しかし、須賀達郎が描く『ボールパークでつかまえて！』は、そのどれとも違う、新しい“球場の物語”です。

本記事では、作者・須賀達郎の人物像と、本作誕生の背景に迫りながら、球場を舞台にした群像劇の魅力を紐解いていきます。

須賀達郎という作家──野球愛と人間観察の融合

野球漫画の新たな地平を切り拓く

須賀達郎は、講談社「モーニング」にて『ボールパークでつかまえて！』を連載中の漫画家である。2020年から始まったこの作品は、“球場で働く人々”を描くという、従来の野球漫画とは一線を画す視点から注目を集めた。

彼の描く野球の世界には、ヒーローのような選手や大逆転劇は登場しない。代わりにフォーカスされるのは、ビールの売り子、警備員、売店の店員、そして試合を見守る常連ファンたち。つまり、球場を「ひとつの町」としてとらえ、そこに息づく人間模様を丁寧にすくい上げている。

この視点の根底にあるのは、須賀自身の“野球ファンとしての生活者目線”だ。千葉ロッテマリーンズの熱心なファンである彼は、何度もZOZOマリンスタジアムを訪れ、観客席から「野球を観る」だけでなく、「球場で過ごす」ことそのものに目を凝らしてきた。

だからこそ、須賀作品の空気はあたたかく、どこか懐かしい。派手なカタルシスよりも、“あの売り子さん、今日も元気だな”“あのカップル、また来てるな”といった、ファンの誰もが心に抱くささやかな記憶が物語になる。

そこには、物語の主役を「観る側」から「働く側」へと移すことで生まれる、野球文化へのもうひとつのまなざしがある。

球場を“町”として描く視点の独自性

『ボールパークでつかまえて！』の最大の特異点は、球場そのものを“町”として描いている点にある。つまり、そこに通う人々──売り子、清掃員、常連ファン、イベントスタッフ──が、ひとつのコミュニティとして日常を築いていく様子が物語の核を成している。

それは、いわば“出会いと別れが交差する小さな都市”の群像劇。毎試合、違う人が訪れ、違う事件が起こり、でも同じスタッフがいて、同じ売り子の声が響く──そのリズムが、まるで朝市や商店街のような親しみを生んでいる。

この構造は、現代において“消費されがちなエンタメ”に対する、ある種のアンチテーゼとも感じられる。目まぐるしく変化するストーリーよりも、少しずつ変わっていく日常の風景を見つめる。この“ゆるやかな変化”を描ける作家は、実はとても稀少だ。

筆者としても、こうした物語構造には強く惹かれるものがある。派手さがない分だけ、人間の“ささいな変化”や“届かなかった感情”を逃さずに描ける。だからこそ、須賀達郎の作品には、ページをめくるたびに「あ、この人、昨日よりちょっとだけ前を向いてるな」と思える瞬間がある。

野球を描きながら、人生の“ありふれたかけがえのなさ”をすくい上げる──須賀達郎は、そんな稀有な語り手なのだ。

『ボールパークでつかまえて！』誕生の背景

千葉ロッテマリーンズをモデルにした理由

『ボールパークでつかまえて！』が生まれた背景には、須賀達郎自身の「千葉ロッテマリーンズ愛」が欠かせない。彼は公私にわたって同球団の熱心なファンであり、作品の舞台も明らかに千葉・幕張のZOZOマリンスタジアムを強くイメージさせている。

しかし、単に“好きな球団を描いた”という単純な話ではない。須賀が注目したのは、マリーンズが“勝敗に関係なく、ファンに愛される理由”だった。その鍵となるのが、球団運営やスタジアムの空気作りにあったという。

試合に勝てなくても、現場には笑顔がある。選手が不調でも、スタジアムに集う人々はそれぞれの“日常”を楽しんでいる──そんな景色に心を打たれた須賀は、「この空間そのものを物語にできないか」と考えたのだ。

だからこそ本作には、選手の名前は出てこない。重要なのは“球場で働く人”と“そこに通う人たち”の交差点であり、その関係性こそが「マリーンズ的なるもの」の核心だったのである。

球団という“勝ち負けの物語”ではなく、スタジアムという“営みの場”に視点を移した発想。そこに、須賀達郎という作家の感受性と構造意識が浮かび上がってくる。

球場スタッフやファンへの取材とリスペクト

本作に登場するビールの売り子や、イベント運営スタッフたちは、どれも“実在しそうなリアリティ”を感じさせるキャラクターばかりだ。その秘密は、須賀が綿密な現地観察と聞き取りを行った上でキャラクターを構築しているからに他ならない。

作者自身、ZOZOマリンに何度も足を運び、試合だけでなく売店のやりとりや、お客と売り子の挨拶、ファン同士の会話までも記録していたという。その“記憶のスケッチ”が、作品全体に漂う生活感と空気感の源になっている。

取材というよりも、共に現場に“住んでいた”という感覚に近いのだろう。須賀にとって球場は、単なる観戦の場ではなく、「人と人との物語が生まれる町」だった。だからこそ、売り子ひとつとっても、彼女たちの立ち位置や業務ルール、感情の変化に至るまで丁寧に描かれる。

筆者としても強く共感するのは、“描かれる側へのリスペクト”が作品の根底にあること。日常を営む人たちに対し、物語の主役としての光を当てようとする姿勢が、何よりも誠実であたたかい。

この作品は、ファンであることと創作することの境界線を問い直す──そんな覚悟のこもった“現場発”の物語なのだ。

キャラクターたちの魅力と関係性

ギャルなビール売り子・ルリコのツンデレな日常

『ボールパークでつかまえて！』の象徴的キャラクターといえば、何と言ってもビールの売り子・ルリコだろう。派手な髪色にピリ辛な言動、そして何よりも“仕事ができる女”としてのプロフェッショナリズム。ギャル的な外見とギャップのある働きぶりが、読者の心を掴んで離さない。

ルリコの魅力は、そのテンプレを崩した“実在感”にある。気怠そうな顔をしつつも、売上目標には誰よりもシビア。お客様対応も、愛想ではなく距離感を武器にした巧妙なもの。これはまさに、現場の売り子たちのリアルな声が反映されたキャラ造形だ。

須賀達郎はこのルリコを、決して“癒し”や“アイドル”的な視点で描かない。むしろ、感情をうまく出せない彼女が、仕事のなかで少しずつ“つながり”を築いていく姿に焦点を当てている。

たとえば常連客との絶妙な距離感、チームメイトとの反発と連携、あるいは後輩への思いやりを隠しきれない瞬間。こうした“ツン”の奥に宿る“デレ”ではなく、“言葉にできない優しさ”がルリコという人物を際立たせている。

彼女のセリフに、こんなものがある。「客は、あたしを見てるんじゃない。ビールを買ってるだけだよ」。その言葉の裏には、仕事と自分を切り分けるクールさと、誰かに“本当は見てほしい”という淡い期待が重なっている。

社畜サラリーマン・村田との微妙な距離感

もう一人、読者に強く印象を残すのが、サラリーマンの村田だ。彼はルリコの“常連客”でありながら、ただの“キモいおじさん”にはならない絶妙な存在として描かれている。仕事帰りに球場へ通い、缶ビール片手にルリコの姿を追う──どこか寂しく、どこか愛しい彼の姿に、多くのファンが自分を重ねる。

村田は言葉が多くなく、ルリコとも深く踏み込まない。でも彼の目線や態度からは、球場という“逃げ場”で得られるささやかな救いがにじみ出てくる。だからこそ、ルリコとの会話も、冗談や軽口のなかに、“本音を隠す術”としての妙味がある。

このふたりの関係は、恋愛に発展するわけではない。それでも、球場という場所で“同じ時間を過ごす”というだけで、少しずつ変化していく温度感がある。これが、須賀達郎の人間描写の巧みさだ。

ふとした会話のなかで垣間見える感情の綾、踏み込まないからこそ成立する信頼──そこには、“誰かと深くつながることがすべてじゃない”という、現代的な人間関係のあり方が投影されている。

「近すぎず、遠すぎず。でも、また会いたいと思える」。この言葉が、村田とルリコの関係性のすべてを語っている気がする。

アニメ化による新たな展開

2025年4月からの放送とスタッフ陣

『ボールパークでつかまえて！』のアニメ化が発表されたのは、2024年末のこと。ファンの間では「これは映像になったら絶対沁みるやつ」と早くから期待の声が上がっていた。そして、ついに2025年4月──テレビ東京系列にて、アニメ版の放送がスタートした。

制作を手がけるのは“空気感の再現”に定評のあるスタジオ・ライデンフィルム。監督には日常描写とキャラ心理の表現力に定評のある山本靖貴、シリーズ構成は『サクラクエスト』や『色づく世界の明日から』の横手美智子が担当する。

この布陣だけでも、原作の繊細な群像劇が大切に扱われることが伝わってくる。特に山本監督は、キャラクターの“間”や“視線”といった非言語的な演出が巧みで、球場という多層的な空間を立体的に映像化できる数少ない演出家だ。

主題歌には、indigo la Endによる書き下ろし楽曲が起用され、作品世界のやわらかでほろ苦い余韻を音楽で包み込むような演出が加わった。筆者も実際に第1話を観て、その完成度の高さに驚かされた。まさに“日常のドラマ”を丁寧に紡ぐ、静かな傑作アニメとしての第一歩だった。

派手さはない。でも、じわりと沁みる。そんな“間接照明のようなアニメ”が、いま確かにひとつ、灯ったのだ。

原作の雰囲気をどう映像化するか

『ボールパークでつかまえて！』は、派手なアクションや明快な山場に頼らない物語だ。だからこそ、アニメ化にあたって最大の鍵となったのは“空気感の再現”である。売り子の呼び声、缶ビールの泡立つ音、遠くで響く応援歌……そんなささやかな生活音の積み重ねこそが、この作品の本質だ。

アニメ版では、こうした音響演出に対しても並々ならぬこだわりが見て取れる。環境音を活かした空間表現、視線の誘導による視点の変化、そしてキャラクターの動きの“緩さ”に至るまで、日常感を支える全要素が丁寧に構築されている。

筆者が特に感銘を受けたのは、ルリコが売り場に立つシーン。彼女が客と接しながらも、どこか心ここにあらずな視線を交わす場面で、画面全体に漂う“孤独と親しさの入り混じった空気”が見事に描かれていた。

また、モブキャラクターの芝居にも抜かりがない。ファン同士の小さな会話や、通路で肩がぶつかる瞬間といった、物語の本筋には直接関係ない動きが、画面の奥行きを支えている。それこそが、「町としての球場」を再現する鍵なのだろう。

このアニメは、ただ“動く原作”ではない。“空気が動く作品”としての新しい命を吹き込まれている。

須賀達郎の作家性と今後の展望

日常の中にあるドラマを描く力

須賀達郎という作家の特異性は、「何も起こらない」日常から物語を立ち上げる手腕にある。野球漫画というジャンルにおいて、試合や勝敗を描かず、むしろ“観る側”や“働く側”の感情を織り込んだ作品を成立させる──それ自体がひとつの冒険だ。

しかし須賀は、それを“視点の逆転”としてではなく、あくまで「物語の重心をずらす」技術として機能させている。派手な試合展開がない分、キャラクターのまなざしや沈黙、ちょっとした躊躇いが、劇的な意味を帯びてくるのだ。

そこには、観察者としての繊細な視線と、描かれる人々への深い敬意がある。球場を歩く誰かの後ろ姿、売り子の一瞬のため息、サラリーマンがひとり缶ビールを空ける瞬間──須賀はそうした“何でもない風景”を、「物語の核心」としてすくい上げる。

筆者としても、この“静けさの中にある熱”に心を揺さぶられてきた。彼の作品は、喧騒に隠れて見逃されがちな感情を掬い上げてくれる。しかもそれを、大げさな説明や演出に頼らず、あくまで“そこにある温度”として描くからこそ、読む者の体温にも自然に馴染む。

まるで、夕暮れの球場に吹く潮風のような。須賀達郎の物語には、そんな匂いと湿度がある。

読者との距離感を大切にする姿勢

そしてもうひとつ、須賀作品に通底する魅力は、“読者との距離の取り方”にある。キャラクターを一方的に突き放すでも、過剰に感情移入させるでもなく、あくまで“隣の席に座っているような感覚”を保ち続けてくれる。

たとえば、登場人物の悩みや葛藤は、必ずしも明確な“答え”を提示されない。読者に判断を委ねる形で終わることも少なくない。でもそれは、作家が「答えを出さない」のではなく、「一緒に考える余白を残してくれている」からだ。

その距離感は、“語りすぎない優しさ”にもつながっている。ルリコがなぜビール売りを続けているのか、村田が何を抱えて通ってくるのか──すべてを明かさないからこそ、彼らを「ただのキャラ」としてでなく、「どこかにいる誰か」として感じることができる。

筆者としても、この“物語の中に読者の居場所を残す”作劇術には強い共感を抱く。情報を与えるだけでなく、感情を編み、問いを投げかける。そのスタンスこそが、須賀達郎という作家の“誠実な物語観”なのだろう。

今後、彼が描く新たな世界も、きっと“誰かの日常”をやさしく抱きしめるような作品になると信じている。